昭和43年12月24日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
今日は皆さんこの御理解二十九節を御理解として頂かずに、御神誡として頂きたい、と思うのです。私を中心にして、合楽の信奉者の方々は御神誡にもうひとつ、この御理解二十九節が加わっておると思うて、頂きたいと思います。ここで言われます、[「梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせたい」]と言う。これが合楽の、所謂おかげの姿。その三つの内容を持った信心が、合楽だと言うております。
成程その様なおかげを頂いておると思います、梅の花の様な信心も又ある意味合いに於て、馬鹿ほどの素直さをもってお互い信心に取り組んでおります。ところがこれは期せずしてというかわざわざ骨はおらんでも桜の花はこれは、持前だと言うのです。合楽の場合は。これは梅の花の信心でいかにゃいけんとこう、取り立てて言う事はいらん、もう梅の花の信心はもう露出しておるようなもの。これは私の信心性格がそれなんです。ですからもし私がそれだけであったら、もう本当に早う散るのですけれども。
信心の苦労と言うか、苦労が長かったおかげで、いわゆる信心辛抱梅の花と言うような、おかげを頂いて、段々信心辛抱が身についてきた。柳に風折れなしと言うが、もう風には逆らわない。自然の成り行きには逆らわない、と言うような行き方が、何時の間にか、難儀な中に身についてきた。ところが、その持前であるところの桜の花の信心は、これは、稽古しょうとしなくても、誰でも桜の花のようにパッとしたおかげを願わない者はありますまいけれども。
そういうこれは、どこにも負けないような信心の華やかさ、これは悪いと言うんじゃないですよ。これが合楽の特色のように感じられる。『私は今朝から、お夢を頂いたんです。そのお夢が何か大変なお客をしておるようですお祝いごとの。それに五十人前膳部が出来ておる。その膳部には一人一人が責任者がついておる訳なんです。ところが実際お客の場になったところがね。
五十人の五分の一であるところの十人位しか来てないと言う事。そしてその残った四十の膳部はともかくとして、それについておる一人一人がですね。もうどうにも仕様のない程に、手持ち無沙汰と言う様な感じのお夢でした。どういう事であろうかと、今日御神前に出て、その事をお願いさせて頂き、只今御理解を頂きましたら、まず初めに「御神誡」と頂くのです。そしてその次に御理解二十九節を頂くのです。
だから合楽の人達は、今日から、もうひとつ御神誡が増えたと思うてですね。私共がこれは頂いていかなきゃならんのだ。そこで思われます事は、桜の花のようなおかげを頂きたい。だから人の真似の出来ないような。昨日、筑水信徒幹部研修会で秋永先生があちらへ行って帰ってからのお話なんですけれども。とても合楽の人達のような真似は出来んとこう言う。それがもうお世辞ではない、真剣にそれを言われる。例えば福岡辺りから、毎朝、朝の御祈念に参って来る。
朝の二時三時から参ってこなならん。とても例えその一事だけでも出来ない。だから人の真似の出来んような信心がそれに出来ると言う事はね。やはりこれは桜の花的な信心の良い面なんです実に華やかな。だから朝の御祈念になる訳なのです。これは桜の花の信心の良いところ。そこで私共がそういう桜の花的な、良い悪いを持っておりますから、それは骨折らんでも自ずと備わっておるようなものですから。私共はひとつ梅の花の信心とでも申しましょうか。今日は特に柳のような信心と言う事もですけれども。
取り分け梅の花のような信心と言うものをです。焦点に本気でさせて頂くと言うところから、桜の花のパッと咲いて、パッと散ると言う。そういう欠陥をカバーする信心になるのだ。梅の花の信心を本気でひとつ身につけていこう。桜の花的なものは、お互いが持ち合わせておるのだ。思うて見ると最近の合楽ムードとでも申しましょうか、その中にちょっと、こう慢心が非常に動いておると言う感じなんです。どうもこれは私をはじめ天狗になりかかっておると言う感じなんです。
余りに合楽の信心は素晴らしい素晴らしいと言われりゃ、ほんなこて素晴らしいと思い上がっておる向きを、今日改めて感じました。昨夜の月次祭のお説教の中から、それを思うても、私自身思うた。今年と言う年を、いよいよ有難い年であったと、お礼が申し上げれる。そしてそういう心で新しい年を迎える為にもです。本気で一年間の精算とでも申しましょうか。一年間の信心を振り返って見て、信心も出来ませんのにと言うその出来ませんところを、この一週間の間に本気で詫びよう。
一週間をお詫びに徹しょうと口で言いながら、果たしてお詫びのしるしの信心がどれだけ出来ておるであろうか。ただ口で言うておるだけの感がせんではない。みんなが思うてはおるけれども。本気でこのお詫びならかなうと言う様な真剣なお詫びをしておる者の姿であろうかと。頭も下げんな、すいませんと言っておる程度のお詫びじゃないだろうか。実行の伴わない、お詫びのしるしの何にも出来てない、お詫びじゃなかろうか。少し何かに、言わば調子に乗り出してきた。
するとすぐに調子に乗り過ぎる傾向が桜の花の信心の欠陥なんだ。調子に乗らにゃならないけれども。乗り過ぎたら危ない。今合楽は一生懸命おかげ頂いて一生懸命頂上を極めた、ある意味合いで。山登りで言うならその頂上を極めて、下り坂になっておる時でなかろうか。調子が出るのは当り前、それをひた走りするようにして坂を下りよったら、どっこいストップと言う時にです。さあここの辺でとまらんならんと思うておっても下り坂に足がとどまらんで。
例えば崖にでも飛び込まにゃならんような結果がですね、感じられる訳です。下り坂だからこそ、ブレーキをかけかけしながらです。下って行かねばならんのに、その下り坂に、言わば足を早めておると言うか、走り出しておるような感じがする。成程これは御理解二十九節は、これは御理解としてでなくて、合楽の者はこれを御神誡として、いよいよ頂いて行かねばならんと言う事を、今日私は頂いておるお夢の中から、それを感じます。それで桜の花の信心は、お互い合楽の持前。
そこで私共この梅の花の信心に、本気で取り組ませて頂いて、ようやくカバーが出来る事であろう。それがブレーキがわりになると言う感じなんです。私はそう言う事を、いろいろ感じさせて頂いておるんですけれども。皆さんどうでしょうか。本気でお詫びお詫びと言うておりますが、お詫びのしるしがどういう風に形に表れておるでしょうか。口だけのお詫びで。
例えば今年を終らせて頂いても、決して本当のよい年を迎える事は出来ない。本当に詫びが叶たと言う信心は、梅の花の信心をもって、詫びの信心とさして頂かなければならない。私は、昨夜初めて、休ませて頂く時、久富さんが毎晩奉仕をして下さいます。けれどもお詫びをさして頂いておる者が、ですね。人から足腰どん、揉んでもらいよる事じゃあ、お詫びにはならんと言う気がするのです。
ゆうべ初めて、繁雄さん、もう今晩は遅かけんでどうか早うやすんで下さいと、わざわざ来て頂いたけれども、お断わりした。そんなら、ちょいとだけでんと言うて頂きましたけれども。いやもう今晩はよか早うやすみなさい、と申した事です。言いたい事は言う、したい事はする。そして何がお詫びぞやと言う事なんです。言いたい事も辛抱する。したい事も辛抱する。それこそお詫びのしるしに慎ませて頂く。言うならば謹慎の時であり、いよいよ本気でお詫びをさせて頂かなければならない時。
そのお詫びをしておる者の心の状態又は形、姿と言うものはです。本当にお詫びをしておる者の姿、内容でなからなければ、ならないと言う事をです。改めて今日頂かせてもらい。改めてこれは御神誡にもう一節増えた。それはこの御理解二十九節が、合楽の人のこれは、御神誡に加えられなければならない。そして桜の花の信心と言うものが、お互いの持ちりゅうの中にあるのですから。
本気で梅の花の信心。いわゆる辛抱すると言う信心。その本気で辛抱させてもらうと言う事の、ここは辛抱出来んと言うところを辛抱させてもらう。それが言うならば、梅の花の信心。そういう私は、梅の花の信心をです。お詫びのしるしに、おかげを頂かねばならん梅の花の信心と、柳の信心を一生懸命させて頂いて、桜の花の信心がです。これは自分の持前の中にあるのですから。これが三者が一つになって初めて、華やかなおかげ。しかもそれがスーッとしない。
桜の花の散った後のような寂しさを感じんですむ、おかげを持続し、頂き続けていく事の為にも、どうしてもひとつ梅の花の信心を中心にです。私共は焦点を置かねばならんと言う風に思います。そしてここにこれだけは、合楽の人達がいつも考えておかねばならん。言わばこれは、合楽の為の御神誡だと。他の方には通用しない。これを御神誡として頂かしてもらう。そこに私はおかげの受けられる。言うならば現在合楽で頂いておるおかげがね、散らんですむおかげ。
だからここんところは、梅の花の信心と言うのは、それぞれに本気でひとつ、これこそが自分に対する梅の花の信心だと言うものを、ひとつ本当に頂いてもらいたいと思います。これは各々に、‥‥。今朝私がお夢の中に頂いたと言う。五十人ものお膳部が出来て、それに十人のお客さんしかない。こんなにお粗末ご無礼な事はない、だけではない。その四十人の人が、一人一人お膳部についておる奉仕者が、もう本当にこげん手持ち無沙汰はないと言ったような。
成程それは五十人ものお膳部が出来ているのですから、賑やかで華やかですけれども。その前に人が座らないと言う事ほど、また歯の欠げたような感のものはなかろうし、又それを奉仕しょうと思うて、その膳部についておる人達の手持ち無沙汰と言うものを、夢の中に頂いてから、このような事にどもなっちゃあいかんぞと、本当にこれをいよいよ本当のおかげにしていく為にです。
これはいよいよ私達は梅の花の信心をせにゃあいけん。その梅の花の信心を私はここ一週間、年末までそれを、お詫びの信心に焦点を置いておる。そのお詫びの信心がです。口だけのお詫びではなくて、本当に辛抱出来んところを辛抱さしてもらう、お詫びのしるしに、それこそ寒中に蕾をつけて、それが膨らんでいく。しかもそれには、香りまでつけて、芳しい香りをあたりに漂わせる梅の花のような、奥ゆかしい信心。私共が辛抱の出来んところに辛抱する。
そのむこうに辛抱してよかった。せんですんでよかった。言わんですんでよかった。ここのところをもうたまらんと思うたけれども。辛抱させて頂いてよかったと言うその私は、信心がです許されたと言う実感と共にそれが頂けてくる。そういうこの年末。この正月を迎える為だけのものではないけれども。今日の御理解頂きますと、おそらくはこの二十九節を合楽の人達は、もうひとつ御神誡に加えなければならない。
合楽では現在確かに、合楽的と言うか、安楽ムード華やかムード。そういう中にひとつ筋金が通っておるとするならば、この梅の花の信心をもって、筋金にしなければならないのだ。それは、私共に持ち合わせがない信心ですから、本気でその気にならなければ。それは私が過去、十何年間に於てです。私にもこの梅の花の信心と言うものが、欠げておったのだけれども。
そこんところを本気で修行させてもらい、本気で辛抱し抜かせて頂いて私の信心には、成程桜の花的信心だけれども。私の内容には梅の花の信心がある。どのような事の場合でも、私は神様の前にハイと言うてきた。言わば馬鹿ほどに素直になってきた。合楽の信心には桜の花と同時に、梅も柳もあるのだと。只それにあぐらをかいたような考え方を捨ててです。本気でもう一遍梅の花の信心に、取り組まなければならない。
取り分け最近のように、合楽は下り坂と言うのは落ち目と言うのではない。頂上を極めて、向うへおりておる程に、調子の良い、楽な信心の時、ここんところを、例えば調子に乗るだけならよいけれども。乗り過ぎて、さあここで止まらんならんと言う時に、足が止まらんような事で大怪我をする事があってはならない。どうも最近の合楽には、私はじめみんなの雰囲気の中に、いわゆる天狗さんになっておる向きを感ずる。
これでは、天狗さんの鼻がへし折られるような結果しか生れてこない。いよいよ謙虚に、いよいよ慎ましゅう本気で、十人分でよいのを五十人分お膳部を作る事のないような、自分の身の程というものを、よくよく思うて見て、おかげを受けていかねばならんと思います。どうぞ、この御理解二十九節を、御理解としてでなく、御神誡として頂かしてもらう事を肝に命じてもらいたいと思うのです。
どうぞ。